プログラマーの不要論は、「プログラムを自動生成できるようになるのではないか」という発想からきているとされます。一見すると、それはある意味で可能ですし、ある意味では不可能だと言えるでしょう。

例えば、あるシステムやアプリケーションを開発する必要性があったとします。プログラミング言語に何を使うかはさておき、そこにはプログラミングが必要です。その際にプログラマーが書いたプログラムを、自動生成できるようになるかもしれません。

その事実を根拠に不要論が唱えられますが、ここで押さえておきたいのは、プログラマーと自動生成したプログラミングは全く同一ではないことです。

ある企業で、給与システムとその後の業務受注システムを、自動生成でプログラミングしたとしましょう。その2つのシステムを統合したいケースが起きた場合、従来のプログラマーなら順応可能でも、自動生成のプログラミングが必ず順応できるとは限りません。

というのも、プログラミング言語そのものを扱うプログラミングと、自動生成によって行われるプログラミングでは、順応度に違いがあるからです。

言い換えれば、自動生成されたプログラミングでは、確かにプログラムそのものの理解は不要かもしれません。しかし、仕様変更の度に新しいプログラミングを後付けするしかないのです。プログラミング言語レベルでそれを扱うことと、プログラミングツールで付け足し続けるのでは、融通面でも限界に差が出ます。